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嶋田は金曜日の夜をもてあましていた。親密な時間をわかちあえるような女もいないし、ひとりで立ち寄れるような飲み屋も知らない。たいがいコンビニで買った弁当と向き合い、テレビのロードショウを観ている。それが自分の好きなジャンルであろうとなかろうと、下世話なバラエティ番組よりは気が安らいだからだ。

ある日、彼は映画館で映画を観た記憶がほとんどないことに気づいた。勤務先から自宅までの通勤経路にレイトショウをやっている映画館がないか調べてみると、シネコン、ミニシアターが1件ずつあるではないか。それからというものの、彼は定時より1時間ほど遅くタイムカードを押すと、足取りも軽く映画館へ通うようになった。外国の俳優にはうとかったが、ちかごろは気に入った役者の出演作をレンタルして観ることもある。暗闇の中でぷりぷりのホットドッグと肉厚のポテトフライをビールでやりながら、彼は日々の疲れを癒した。レイトショウには若者や会社帰りのOLも来ていた。最新作やヒット作を観る客でフロアが混み合うときは、たいてい素通りした。遊びに来てるんじゃないんだおれは。彼は現実を忘れさせてくれる装置としての映画館が大事だった。

彼は電子機器の部品工場で生産管理を担当している。といえば聞こえはいいが、派遣社員として入社してやっと半年たったところであった。その前まではコンビニやファミレス、スタンドでアルバイトをして生活していた、フリーターだった。大学を卒業してからずっとそんな感じで、社員だとか会社だとか事務だとかいったことにまるで縁がなかった彼が、

「フリ卒すっぞ」

 と決めたことにも理由はなかった。男友達と行った飲み会の席で酒の勢いで口にして、走り書きされた誓約書に拇印を押した、そのためのものだった。

 その場にいた嶋田を除く4人のうち、新藤だけがフリーターで、あとほかの3人は社会に出て3年目で、揉まれながらも仕事のやりがいに目覚めてきた時期だった。飲み始めてすぐはお互いの近況、つまりは仕事の話ばかりでやり過ごしていたが

「おめえら、いつまでのんべんだらりとやってんのよ」

 和久井が言い、つづいて奥野が

「そーだぜえ、はやくハラくくれよ」

 くさい息を嶋田に吐きかけてきた。

「でも勢いでもなんでも就職しないとヤバいぜ。男なんだからさあ、だらだらやってたらあっちゅーまにオッサンで、このままじゃお前日雇い労働者まっしぐらだぜ」

 松谷が皆が言うに言えないことを言い放ち、手帳を破って誓約書にし、嶋田と新藤に醤油で拇印させたのだった。その誓約書には、もし1年後に同じ職場にいなかったら今後の飲み会の費用はふたりが負担することなどがのうのうと書かれていた。飲み屋をあとにすると足をふらふらさせた奥野がコンビニに行き、2枚のメモのコピーをとり、

「本書はおれが預かる」

 といい、コピーを全員に配った。だらしない笑みを浮かべて嶋田はそれを受け取り、

「馬鹿にすんなよ、やったろーやないかい」

 と息巻いた。半年前のことである。

だが彼は3千年くらいに感じられた。入った会社はサイアクだった。毎日出荷する製品のうち、三分の一は出荷先の検査でロットアウト返品されてくる。上役は始終カリカリしていて、どこからともなく怒鳴り声が聞こえてきた。社員は肝を冷やしながら確実に検査合格できるよう、無理のない生産計画を立てるのだが、上役たちは生産数を上げればいいだけじゃないか、と言う。感情でものを言い、当り散らし、機械のオペレータを毎日深夜まで残業させる。

 さいしょはその厳しい状況が、日本の生産業界の縮図であり、社会とは実際はこういうものなのだ、と思っていた嶋田も業務を続けているうちに、そうではないことがうすらぼんやりとわかってきたのであった。会社の体質自体が腐敗していた。もともと町工場で、法人化されて2年ほどだというこの会社、社員にはボーナスも有休もあいまいなのだそうだ。この間、3年勤めていた機械のオペレータがやめた。彼は言った。

「おれもたくさんやめていくのを見たよ、半年持てばいいほうだ」

嶋田自身も入社して1ヶ月もしないうちに4人の人間がやめるのを見ていた。そのうち2人は派遣社員で入社して1週間でやめた。人の入れ替わりが激しくて、製造部にいる人間の名前をいまだに全員把握できない。

 

 旅がしたいな。映画館の暗闇のなかで嶋田は思った。フリーターだったころ、彼は放浪人生に激しく憧れていた。長期の旅行にもふらっと出かけたし、リゾート地でのアルバイトも何度か経験した。彼はいまだに日本中を移住しながらその日暮らしで生きていければそれでいいと思うことがある。もちろん、それはそれで勇気のいることだろう。人並みのシアワセ、たとえば結婚や出世といったようなものと縁遠くやっていくというのは、張り合いもないだろう。それでも嶋田はときどきそんな暮らしを渇望するが、それを口にした事はなかった。

 マナーモードにしている携帯電話がながく振動しつづける。松谷からだった。しばらく微動していた電話を無視して嶋田は映画を観ていたが、思い立って席を離れ、彼に電話した。

「わるい、映画観てたんだ」

「おーそりゃ悪かった。いま和久井と飲んでるんだけど、映画終わってからでもいいから来ないか?」

 彼は別にいまから行っても良かったのだが「おお、行くよ」とだけ応えて電話を切り、煙草を1本だけ吸って席に戻った。今日観ているアクション映画は話の筋がいまいちだったので、ど派手なCGのシーンだけおさえて嶋田は席を立った。松谷に連絡をつけてふたりのいる飲み屋へ行く。嶋田の顔をみるとすぐさまビールを頼んだ松谷が皮肉る。

「仕事帰りに映画なんていい趣味じゃないか」

「時間つぶしだよ」

「和久井、結婚するんだって」

「へぇッ、おめでとー」

 しばらくお互いの近況を話しているうちに、嶋田は自分でもびっくりするぐらい自然に

「会社やめてえ」と言っていた。なに言ってやがる、と悪態をついたふたりも、彼の会社の状況を聞いているうちに同情しはじめて「ヤメロヤメロ」「そんな会社やめちまえ」と口々に言うのだった。嶋田はそれに安心し本音を吐露した。

「やめて、どっか遠くに行きたいなあ…」

 けれどそれを聞いた和久井が

「でも、ぎりっぎりまでやってみるのもひとつの手なんじゃないか?もうその会社の空気吸うのもイヤッ、上司の顔見たら背後から刺しそう、っていうくらいまでやってみる」

「ヒトゴトだなー」

「ヒトゴトだもん」

 和久井が満面の笑みを浮かべビールのジョッキを仰いだ。

「遠く なら、いまからでも行けるぜ、今日金曜だろ。行くだけいってきたら?」

 松谷が言った。

「口でやめたいとか、逃げたいとか言えるうちはまだイケるよ。本気ヤバかったら、誰にも言わないで行動するだろ」

 その、自分より世間を噛み分けられたことばに反論できず黙っていると、ふたりは

「新藤も、どーしてっかなアイツ」

「広告系に正社員で入ったらしいじゃん、あいつ結構パソコンも使えるしなー」

 嶋田と同じ誓約書を結ばされた新藤の身をさほど心配するでもない口調だった。

 

 彼らと別れて帰途について、嶋田は自分で自分がいやになった。会社にも腹が立ったが、「やめたい」という弱音を吐いた自分がいやだった。仲間から見れば幼稚に映ったに違いない。自己嫌悪につづいて、どんどん置いていかれるような恐怖も感じる。じゃあ、あんな会社でもしがみついて、いわゆる石の上にも三年、経験を積んだら外でも通用するいっぱしのリーマンになれるんだろうか…とてもそう思えない。自室にねころびながら彼は大きなため息をついた。そこでまた携帯が鳴った。実家の母からのようだ。

 放っておこう…。

 だか着信音は延々とつづく。まるで我慢くらべか執念かといったところである。1分以上なり続けていたかと思ったら、音は止み、また電話が鳴った。非通知である。これもまた執念深く鳴らし続けるので、すぐに母と察知し、放置した。いなかの親と話すのは面倒で神経が逆なでされるものがあるので、嶋田は3回に1度くらいしか電話に出ない。ふたたび部屋が静かになったので、嶋田はシャワーを浴びた。彼が出る頃には着信は5件にも及んだ。なにかあったんだろうか?気にならないでもないが放置することにしてパジャマに着替えていると、また電話が鳴った。深夜にまでこれが及んだら眠れやしない、観念して電話に出ると

「もしもしィ?」

 相手は怒っている。

「あんたなあ、居留守なんだろ。さっさと出んしゃいよぉ、腹の立つ子だよ」

「風呂だったんだよ」

「ああそう、どう、元気でやってるの?」

「こないだ電話したばっかじゃんけ」

「こなんだって、1ヶ月も前のことやに?あんた電話出んからし。まともな仕事してる男は電話来たら、都合つかんくても折り返しーつーって電話してくるに。お母ちゃんだってそんなん知ってるよ?あんたいくつに?恥ずかしか子だよ」

「説教じゃったら切るに!!

「あんたはぁ話をきかない。せっかちぃな男だねぇえ。元気かってお母ちゃんが先にきいとんのさぁ」

「元気じゃ」

「ああそう、元気が一番じゃ。仕事はどうやってんの?いまんの調子では電話も出させてもらわれんだろに」

「電話は女子社員が出んだよ」

「あぁああ。女子男子ってあんた、遅れた会社でぇ、だいじょぶかいねホント」

「ああぁあ、仕事も、順調ですよ。はいはい。用件ないならホント切るに!!

「あんた彼女でげたか?」

「余計なお世話じゃ、…ぼけぇ」

「カズが彼氏つれてきよったんよ。イイ男じゃったなあ、仕事もできそうだしやさしい、ちゃん、っとした彼氏」

 カズとは妹の一代で、実家のあたりでは一番の都会の市内に勤めている。

「育ちが違うんじゃ」

「よう言うてくれますな。まあそれはそれやに、あんたもいいひといないんか?守ってやりたい子ぉでもおったらもっとわきまえた男になんじゃろうにと、思ってなあ」

「うっさいな、そのうち5人くらい連れて帰ったろか」

5人もいらん、あほか。1人大事にでけんのに大口たたいて」

「ぁあああ、もう切るに」

「お見合い、せんか。

そんだら堅苦しいもんでなしに、同い年くらいのムスメさんと話するだけの、あああぁ、あ合コンみたいなぁもんやに。合コンの合同じゃないやつ」

「はあぁあ?もうホントにホントに切るに!!!!!!!!!!

「考えときんしゃいよ、男はなんでも早いめ早いめが吉やに、特に祝い事はそうと昔から決まっとります。

悪かったね。サイ ナラ」

 けっきょく嶋田は母親の最後の言葉までちゃんと聞き届け、電話を切った。いらいらしてきたので携帯電話をベッドの方向へ力任せに投げた。勝手なことばっかし言いやがって。どいつもこいつも放っておいてくれたらいいのに。結婚なんか考える相手なんか全然まだまだいらないのに。そんなのいたら仕事がイヤでもそうそうやめられない。どこか遠くに行きたくても行けやしない。…と想像だけで思う。

嶋田は異性との関係をきちんと長続きさせたことがなかった。

 あらためてそれを再確認すると自己嫌悪の念はあらがいようもなく彼の眠りをさまたげる。

 

 

その金曜日はいつもより大幅に出荷が遅れたので、嶋田がタイムカードを押すころには映画が終わるくらいの時間になっていた。

今日は通勤鞄の中には宿泊できる準備をしている。財布には前日に買った寝台列車の切符が入っている。行ったことのない町、約束のない町行きの切符は初めて買った気がする。

「ヤバい、乗り遅れたらシャレになんね」

 さいきん日増しに多くなっていくひとり言に口をふさぎながら、彼はターミナル駅へ急いだ。乗車予定の列車はまだだった、先の電車が遅延しているらしい。彼は改札をくぐろうと財布をまさぐったが、切符がみつからなかった。鞄の外ポケットに入っていることを思い出し、取り出すと、紙片がすべりおちて、彼より先に改札を通過した。

 紙片は半年前にかわした醤油の捺印の誓約書だった。

彼はそれをわざとゆっくり拾い上げた。行き交う人がいまいましげに彼を見やった。嶋田は彼らの視線を感じながら前へ進んだ。時間に縛られて世間に縛られて、そんなのまだまだ正直先でいーじゃんか。どうせ来るとき来るんだしそれまで抵抗したっていーじゃんか。

嶋田は紙片をまるめてから破った。

こんなん、なくたってあと半年以上は働くよ。働いてやるよ。

自分はまだ、いまならば、どこへいく切符でも、どの映画を観るチケットでも、誰といっしょにいるかも、ひとりで生きていくかも、選ぶことができるのだと嶋田は思った。

いままで遅れてたぶんを巻き返す加速をつけるために、遠くへ行こう。

アナウンスが入って、青い車体がホームに滑り込んできた。

 

 

 

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