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終わるんだ、と思った。おれは鏡を覗き込み、単語を意識しながら歯をみがく。森田さちは昨日まで、おれ:木下一博の「将来を約束した」恋人だった。でも今日の夜、彼女はこの部屋に来ておれに別れを告げるだろう。

 おれは郊外の工業団地の一角でシルクスクリーン印刷のオペレーターをしている。規格サイズの樹脂に見合った印刷を打っていく仕事で、けっこうこまかい神経を要する。さちが別れを告げても、おれは機械の一部みたく的確に印刷をするだろう。漫画みたく、あ、っとか言って大量にミスを出すわけにも行かない。さちはおれの仕事をあんまりよくわかってないみたいだった。ただ町工場で働いている、くらいの認識しかされてなかったと思う。自分はOLで、都内で営業事務をしていて、電話でおかしい話があったとか同僚の●●さんがどうとかって話す。ランチのメニューや夜毎の飲み会の報告…。

いま思うとおれはなんであんなに話を聞いてやっていたんだろう?

お前が話していたのはおまえ自身じゃなくて「うまくOLやってる森田さち」でしかなかったじゃないか。

 

 3年弱のつきあいになっていた。お互いが友達の紹介で知り合った。お互いデートに遅れることはよくあった。でもさちの理由は

「ストッキングが伝線して」

「腹痛がきて薬探してた」

言ってることと矛盾があるようにいつも、メイクが決まっていた。デートの途中で化粧」を直しに行くのもしょっちゅうで、しかも長い。そこまでする顔でもないのに、と思ったことがある。言ったら傷つくと思って言わなかったけど、部屋で無防備な彼女が好きだった。食事をするところに入ればメニューを決めるのにいつまでも迷っていた。おれがいらいらをおさえるのに煙草を出そうとすると

「私の前では禁煙にしてよ」

 と言う。そのくせ自分が待たされているときはずっとメールを打っている。おれの用事で待たせている場合、おれが「待たせてごめん」と一応謝ってからもしばらくメールを打っていたりした。いったい誰になにを打ってるんだろう?

結婚の話も出ていた。お互いの給料の話も正直にした。さちのほうが月によっては1,2万多いこともあったけど、そこは彼女を持ち上げておいた。

「よく残業してるもんな」

 さちは照れかくしのように笑っていた。

 

知り合って1年くらいしたころだったか、うちの両親が田舎から出てきたことがあった。親戚の家に寄ったついでに、おれを食事に誘ってくれた。おかあちゃんはおれに彼女ができたと聞いて喜んだ。さちに会ってみたいといわれ、おれは最初かなり強固に拒否したのだった。自分の親をさちにみせたくなかった。けれど親というものは、そういうとき異常な能力を発揮してきて、ついでだからといっておやじを連れていくとまで言った。

「トンちゃんも連れてくる気なんか?」

 おれがきくと

「トンは叔父さんとこ、預けていくよ」

 トンちゃんはおれの弟で、いわゆる知的障害者だ。顔つきなんかも確かに口なんかチュウを待つようにいつも尖らせてはいるものの、普通にしていたら健常者と変わらないと、おれは思う。トンちゃんはパズルが得意で、絵も色彩感覚が独特なのか、おもしろい絵を描く。むくむくした太い指で細かい作業をするトンちゃんを眺めながら、

「ピカソとか岡本太郎みたいになるかもしれないよ」

と、よくおかあちゃんに話したりしていた。

 さちにはトンちゃんの話をしたくないと思っていた。

話したら、一生結婚は考えてくれないんじゃないかと、無意識に感じたんだと思う。それは両親も分かっていたのか、やけにさちに頭を下げて

「きちんとお勤めしてるお嬢さんとお付き合いしてるなんてねえ」

「粗相があったらいつでも放り出してくださいね、丈夫に育ててあるんで」

 おれにも恐縮をおぼえさせるくらいの振る舞いだった。

さちはあとで憤慨していた。

「自分の息子をあんなふうに卑下する親なんてどうかしてる」

 純粋にそういった言葉には照れてしまう。彼女に軽く接吻したら、口紅の油脂がこびりついた。もう家族への後ろめたさはおぼえなかった。

 

 仕事が終わって、約束した時間までまだあったから、おれは帰り道にある飲み屋に入ってビールを頼む。つきだしのこんにゃくとちくわの炊いたのが出てくる。安い赤提灯のテーブルはべとついている。つきだしだって、いつもおなじものが出てくる。それでもおれはその店が好きだ。さちとは、来たことがない。

 似たような店がおれの田舎にもある。多分どこにでもあると思う。なぜかちいさいころにおやじが、おれの手を引いて連れて行ってくれた。カウンタの椅子が高くて、おやじが持ち上げておれを座らせた。なにかの粘膜で覆われた卓上と、その向うの調理場からただようにおい。おもえばあのころから好きだった。おれが酒が飲めるようになって、帰郷するたび、おやじはおれをその店に連れて行った。いまじゃ並んで歩けばおれのほうが背が高く、店も狭く感じるけれど、この薄暗いかんじが、おやじも好きだという。

 安い日本酒をちびちびり、と飲むおやじは、けっして酒が好きで飲んでいるのではないことが、飲めるようになってからわかった。

おれもまた、酒を飲みに来ているわけじゃない。ビールの最後の一口を飲み干すと、ジョッキに泡が残った。わずかな照明がその泡と取っ手の指紋を浮き上がらせる。席を立っておれはすこしそれを見据える。勘定を払って店を出る。

 

空が薄明るくて星が見えない。馬鹿にされているかのように南のほうの遠くの空が照らされている。ときどきパチンコの照明か、旋回するビーム照明が空を舞う。田舎から出てきたおれは、いつまでたっても置いてけぼりにされたような気がして、家までの道のりに照明の少ない道を選んだ。アパートに近づくと、自分の部屋の前に女が立っているのがわかる。さちをきたない部屋に通すのは厭だったが、最後なんだし気にしないようにした。

「別れようって言うんだろ」

「わかってたんだ」

「わかってても言わなきゃスルーだったかな、とも思ったけど、そういうのも、厭だろ」

「うん。私たち、飲み込み過ぎてる話、多くない?」

「おれが正直に言ったら、嫌われると思って」

「わたしもそう思ったこと、あるの」

「じゃあ最後に言い合おう。それで終わり」

 すりガラスの向うに旋回するビーム光線がみえた。なにかの動きの拍子にさちの香水の匂いが鼻にとびこむ。この部屋とまざりあわないから、それはすぐに目立つ。

「なんで別れるか、聞かないの?」

「言いたきゃ言えよ」

「カズヒロは自分のことをなんにも話してくれなかった。もっとお互いに知り合う必要があったはずなのに」

「…だから、それ全部、お前だろ。べつにおれは雑誌に載ってるステロタイプなOLねーちゃんと付き合うつもりなかったんだけど?びちっと化粧してばしっとシゴトして、それは分かったけどお前はいったい誰なのよ」

「私は、私だもん」

「おれのこと知ろうとしてくれたのってさあ、もしかして、いまが初めてじゃないの?お前から見たおれって汚いアパートに万年布団敷いて工場で汗水たらして働いてるおれで、そういうの興味ないんだろ?」

「興味なかったらつきあわないよ」

「いま人間の中身の話してんだ、わかるか?顔とか背丈じゃねえんですけど」

「馬鹿にしないで」

「どっちが」

「カズヒロ、隠してる。家族のこと」

「隠すよ。だってお前厭だろ?おれ、お前に嫌われたくないもん。お前に嫌われたくないからぼろアパートで暮らして貯金して、けっこうちまちま自炊して、デートでたいしてうまくもないレストラン行ってるよ。そうだよ」

「そういうの言ってほしかった」

「言えなくさせてんの、誰よ。嘘ばっかついて自分の都合でうごきやがって」

 またビーム光線がすりガラスの前を通った。おれはそれを絵にしてみたいなあと思った。書いたことないくせにそう思った。トンちゃんのことを思ったからかもしれない。

「カズヒロだってそうじゃん、大人ぶってひとの話聞くサイドにまわるじゃん。すぐどうしたの、って言うじゃん。仕事の話だって、私がなんかあったのって聞いたら、話すと思い出すからって言ってはぐらかしてさあ」

「愚痴って嫌いなの、おれは」

「じゃああたしにも愚痴いうなって言ってよ、言ってくれなきゃわかんないよ」

「言ったら…聞いてくれたのかよ」

「ずっと聞きたかったよ。話さなきゃわかんないじゃん」

「…おれのこと好きならもっと聞けばいいじゃん」

「聞いても応えてくれなかった。カズヒロこそ、あたしの人間の中身の話、聞いてくれたことあった?顔とかプロポーションとかじゃなく」

「…聞かなくたってあれだろ、シゴトのできるカッコかわいいOLになりたくて、30までにケッコンできりゃいいんだろ?それ相応のレベルのオトコひっかけて、コドモつくってきれいなママになってまた働くんだろ?ひとりでも退屈しない趣味もあるイイ女になりたいんだろ」

「むかつく」

「図星だろ、べつにそれが悪いって言ってるんじゃないよ。ただおれじゃレベル足んなくてムリっぽいしねって話」

「たんなくないよ、それって勝手に決め付けてて私に失礼じゃないの?私はいいって言ってるんだからいいんだもん、私の好きな人だよ」

「お前の好きな人はおれじゃなくて、おまえの中にいるほかのだれかだよ。おれのこと知りもしないじゃん」

「知ってるって何?私はつらいとき黙って話を聞いてくれるカズヒロがすきで、ほかにもいいとこいっぱい知ってるよ」

「じゃあべつに話さなくていいじゃん」

「話してよ、私のことで直してほしいとことかあるなら言ってよ。そう簡単には直らないだろうけど叱ってよ。面倒くさがらないで、もっと思ったこと言ってよ。

 先の事考えてるから不安なんじゃないの。私、カズヒロには友達がいてそっちにいろいろ話してるんだろうなって思うけど、私だってそういう話聞きたい。もしケッコンしたとしてあたしばっかり話してたんじゃ気が狂う。そう思ったら、私と向き合う気がないなら別れてっていうしかないって思った」

 おれが黙ると、さちも黙った。しばらくそうやって、口を聞かずにいる。おれはすりガラスの向うを見ている。そのあいだにビームは2回ほど通過し、薄暗い中途半端な夜をワイパーみたくぬぐっていったけれど、灰色はあいかわらずだった。

 いまが、いちばん話をした気がする。

ロックバンドのライブで知り合って、それからちょくちょく一緒に他のアーティストのライブに行った。そのうちたいして気もないのに寝てしまって、告白されて。会話といえば趣味のこと、好きなアーティストの薀蓄、自分が夢中になったポイント、好きな曲の歌詞やイントロ。いま思えばそれらのどこかにお互いは隠れていたのかもしれない。自分のことを面と向かって話すだなんて、いまさらちゃんちゃらおかしくって、格好つけていたのかもしれない。

さちはおれのことを考えているのだ。誰でもないおれを知りたいというのだ。

田舎モノは黙っていればいい、と、いつかテレビの中でお笑い芸人がしゃべっていたのが、なぜか思い出された。関係ないフリをして横目で見ながらおれも、余計な自分を隠して生きてきた。それがオトコたるもんなんだろうと刷り込まれてきた。田舎の家族もトンちゃんも、赤提灯の安酒場も口うるさい自分も、醜いからといって断ち切りたくても、あたりまえのようにつながっていたのだ。

おれは話すことにした。

おれが思うさちの欠点を話しまくる。指折り数えて、こんなにも気に食わないことがあったのによくぞ黙っていたと思う。つまりは口にするのが厭なくらいにいとおしくて欲しかった。いままでぶつかってこなかった勝手なおれが、いまさら露呈されてみじめだった。

 

細かいことをよく憶えているとさちは苦笑した。なんでもっとはやく言ってくれなかったのかと、責められもした。言うのがはばかられたのは、嫌われるのがこわかったからだった。言葉が足りなかったせいでお互いを疑っていた。言わなければ分からないことだらけの世の中なのは、日々実感しているはずなのに。

「厭になっただろ」

「うん」

「別れるか?」

 尋ねながら、おれのなかにはさちがあふれていくのが分かった。

「自分が厭になった…カズヒロの言うとおりだなあって思った」

 さちも涙目になっている。

「どうする」

 さちがむせび始めて、おれは彼女の答えを待った。また旋回ビームがまためぐってくるのが見える。その光はきゅうに長い時間の流れを感じさせた。目の前にいるずるい女の肩をつかんで、おれはもう一度尋ねてみる。

「おれたち、どうするんだ」

 薄っぺらな夜を背に、偽ってばっかりだったおれたちの答えは、もうすぐこの腕の中にやってくる。

 

 

 

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