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 ながい眠りから覚めると、典子が台所に立っている。何か洗い物をしているらしい。人のいる気配が嬉しくて、山原はまたまぶたを閉じた。水の音と食器のたてるかすかな音。しばらくすると静かになったので薄目を開けて見ていた。

彼女は簡素なスツールに腰をかけて本を読み始める。暮れかかった空が部屋を翳らせている。それに気づいたのか台所の手元灯をカチリと点けた。

 そうか、そんな風に過ごしているのか。

 そう思って山原はそのまま眠りに落ちた。

 典子とは学生時代にいまの職場で知りあった。短期アルバイトのアウトソーシングをしている会社だ。ふたりはその会社の内勤スタッフとしてアルバイトをしていた。昼過ぎから入ってくる仕事の案件すべてに対し、夜までにはその日に働ける人材数を確保し、現場へ向かわせる手はずを整えなければならない。朝はその人材の出発をくまなく確認し、欠勤が出ようものなら補う要員を探すか、さいあく自分が行くしかない。毎日がスリルなゲームだった。ほかのバイトより給料が良かった分ハードで、アルバイター中心の若いスタッフは団結した。大学を卒業と同時に、山原祐一はそのままそこの会社の社員になり、それまでとは比較にならない過酷労働を余儀なくされて、昼夜休みなく働いている。   
 今日はそんな彼の久しぶりの休日であったが、昨日依頼を受けた案件が埋め合わせできず、今朝まで残務処理をしたのち、朝から人材補充に全力を注いだのだった。だから家に帰ってきたのは午前11時で、蒲団に入ったのは12時ごろだった。

こんなかたちで約束がキャンセルになるのも、慣れたものだった。久しぶりに典子と外食でも、と思って、前の週から連絡していても、当日にならなければ確定ができない。彼女はそれでも4年、祐一といる。多忙な彼とは、メールのやりとりと、ときどきこの部屋で料理を作ってお泊りするくらいの、きわめて希薄なつきあいが続いていた。住んでいる場所が遠いわけではないのに、遠距離恋愛みたいだ、と言う友人もあった。

 

「最近ちょっと太ってきたから、スポーツクラブに通ってるんだけど、結構ハマっちゃってるんだ」

 食事する祐一の向かいに座って、典子が話す。

祐一が起きると、待ってましたといわんばかりに浴室に誘導し、風呂にいれ、その間に作っていた食事が風呂上りの彼を喜ばせた。炊き立てご飯に味噌汁、焼き魚とおひたしとつけもの、毎日がコンビニ弁当の身には染み入る献立だ。

「太ったの」

「うん、ユーイチはまた痩せたんじゃない?」

「そうかなあ…太ったように見えないけど」

 いままで機関車のようだった箸のはこびを止めて、祐一は典子を見た。彼女の肢体を想像する。

「だから、思いきってセレブな体つきを目指そうと思ってんの」

 典子も彼を見切ったがミネラルウォーターを飲み、素知らぬふりをする。それはいくら仕事とはいえ、自分の気持ちを振り回す彼への、ささやかな反撃でもある。彼女には仕事より自分を選んでくれ、と言う気はなかった。自分とのデートのために中途半端に仕事を投げるような祐一よりは、自分を放置する彼を好ましくも思っている。

祐一は典子のそういった気持ちが解せなかった。デートのたびに今日はゴメンな、とあやまる。あやまりながら、もしも典子に新しい出会いがあったなら自分は捨てられるだろうなと思うのだ。彼女が帰ったあとの自分の部屋の、なんとうつくしいことか。いつも使いっぱなしのコーヒーメーカーが、珈琲の跡がこびりついていたマグカップが、きれいに洗浄されている。

毎日こんな部屋で、彼女が待つ食卓に座れたら…。そう思うこともたびたびだった。彼女がこういった「ままごと」を好んでいるのも、知っている。けれど彼女は「その他のこと」にも、パワフルに行動しているのだ。今日のスポーツクラブもそうだし、旅行や観劇、映画鑑賞、ドライブなど余暇を利用して楽しくやっているのである。そういう典子がうらやましくもあり、ときにそれを通り越して腹が立つ。

(いまの立場にいる限りは、プロポーズしたくないんだよな…。)

予定では祐一も年内には支店長候補になる。いまもほとんど支店長のような仕事をしているが、本格的な研修ののちまず営業部へ配属されるのだ。そうすればいまより多少休みの融通も利く。

(もうちょっと考えたいんだよね…)

 まだ26歳、結婚なんて空の上の雲みたいな存在だ。

 

そんな彼にあらためて「話したいこともあるし」という前置きとともに典子が部屋に現われた。ふたりが会うのは、実に2ヶ月ぶりである。

典子はハンバーグを作ってくれた。目玉焼きものせてある。さらに野菜盛りだくさんのサラダ。スープだけレトルトだが、これも野菜のすりつぶしたスープであると説明する。感動する祐一が箸を持ち、せわしなくたいらげていくのを微笑みながら見つめている。彼女は話すことについて考えている。疲れている相手に自分のことを話すとき、それはたとえ親しい仲でも細心の注意がいる。

 典子はできるかぎり、ゆっくりと整理するように話したが、祐一からすれば要は一言である。

「会社を辞めたいと」

 典子は無言でうなずく。

 彼女は都内のちいさな印刷会社で事務をしている。月末に3,4日残業があるくらいで、そんな大変な職場ではないと聞いていた。

「辞めてどーすんの?フリーターでもするの?」

「まあ、いますぐにっていう話じゃないけど…」

「べつに就職しようって思ってる先があるわけじゃないんだ」

「うん、なんでもいいけど手に職がほしいというか」

「いまのとこのなにが嫌なの?」

「嫌じゃないんだけどね、もっと毎日やりがいをもって仕事したいなあ、と」

「いまで十分頑張って楽しそうにやってると思うけどね、おれには」

「うーん、本音はもっと稼ぎたいんだよね、あたし」

 もっと条件のいいところに転職したいと言う。祐一にはその根拠が自分にある気がしてならないのである。彼は労働基準法に違反するほどに労働しているが、給料は典子とそれほど変わらないのであった。

「今の職場でやってやろうってのはないの?」

「うーん、ないわけじゃないけど、閉塞感はあるかなあ…」

典子は片付けた食卓の木目を凝視していた。それを見ているとなぜが祐一の心はさらついていくのだった。世の中甘く見るんじゃねえよ、と思ってしまう。

「いまから言う事キツイよ、悪いけど」

 祐一はまず前置きした。

「おまえ、仕事の話といえば愚痴しか言わねえし、あきらかに努力不足。

まだなんにもしてねえんじゃん。自分から、あれしますこれしますって動けばいいじゃん。いまいる場所で、やれるだけやってから、そういうことは言えよ。する前からやんねえって投げてるじゃん」

「そんなに愚痴言ってるかなあ。あってもユーイチの前では言わないようにしてるんだけど」

「言ってるよ」

 と、言ってしまってから祐一は、根拠もなく売り言葉に買い言葉で責めたててしまったことに気づく。だが彼にとってはもうどうでもいいことだった。

「要は面倒なんだろ。

そんなことで面倒くさがってどうするよ。これからもっと大変なんだぜ。

…おれそういう女と将来考えるの、ちょっとためらっちゃうよ」

なにかが食い違っている争いなのはわかっているのに、止まらない。そういう口論がある。

「そんなことって祐一は言うけど、私は先のことも考えて言っているの」

 彼女の言い分もわからないわけではない。けれど、急に身の上相談をされてもきちんと聞いてあげられるゆとりを、祐一は持ち合わせていないことに気づいた。いまの自分は、思ったままを彼女にぶつけてしまうだろう。

「やめよう」

口論がさらに自分を疲弊させる気がした彼は、自分からこう言った。

「悪いけど」

 自分がわめきたいだけなのかもしれないとも思う。

「今日はもう帰って。おれも仕事でつかれてるし…」

 追い返しながら、いま帰してしまったら、もう会えない気がした。それはふたりのなかでの直感だった。それでも荷物をまとめて靴を履いてしまう典子も、関係の停滞に疲れていたのかもしれない。

 重く扉が閉まる。祐一は背を向けて見ないフリをした。昨日よりきれいになった部屋にも気づかぬように、早々に蒲団に入る。わずらわしいことは考えずに眠るのだ…。時間に逃げることはとても簡単だ。職場に行けば、思わぬ方向から急きたてられて毎日が過ぎて行く。何かの拍子に、彼女に言ってしまったことばを思い出して自分に復讐したくなる。効率の悪いやりかたのせいで両手いっぱいに仕事抱えてる祐一には、典子は気楽に映った。流されている自分が厭で、ひがんでいるような自分はちいさく見える。その憤りを、またまったく関係のないスタッフへの言葉の端々に含んでしまう。忌み嫌う上司像がそのまま自分に重なるのが分かった。人にばかり要求を押し付けて甘えるやりかただけ身についていく…。祐一は気がつくとここ数年、ふりまわされるだけで自分に何も課していないことに気づいた。

 

 そうして、典子と喧嘩別れしてから1ヶ月が過ぎたころ、彼女は祐一の前に現われた。職場である会社の支店を訪ねてきたのだ。祐一が常駐している支店は常時スタッフが出入りするので、かつて勤めていた典子が訪れても不思議はない。

「お疲れ様です」

 彼は条件反射的にそう言ったが、典子の姿を認めて硬直した。

「お疲れ様です」

 典子は動じずそれに応じた。近くまで来たので、という。

「久しぶり」

 祐一は周辺の内勤スタッフを気にしながら、席を立とうとしたが

「私、仕事やめたんです。来週から沖縄に行くので」

 彼女の唐突な台詞にまた硬直する。

「トモダチと暮らしながら職探しするんで、一応登録の移管手続きをお願いしたいんですけど」

 そう言うと彼女はほかの内勤スタッフに登録番号を伝え、手続きをはじめた。

この処理さえ済んでいれば登録スタッフは他支店で短期アルバイトをすることが可能なのだ。処理が済むと典子はそのまま支店を後にした。祐一は彼女を追った。

「おい」

捕まえて、話を聞こうとしたが

「なに」

と、聞かれるとなにを聞いていいのかわからない。困った顔の祐一をしばらっく眺めてから、典子は晴れ晴れと笑顔で言った。

「もう決めたことだから。自分が動かないとはじまらないし、自分が楽しくない人生なんかつまんないし、ユーイチは仕事と心中するんでしょ」

「そんなこといったって、大丈夫なのか?トモダチと暮らすったって、いまんとこ仕事のあてもないんだろ」

「私は…だれかに必要とされてるってわかる仕事ができれば、どこにだって生きて行けるような人間になりたいと思ってたし、なんとかなるよ」

「おれ、とは?どうなるの?」

いまさらいちばん聞きたいことを聞く。

「うーん…」

「なんでもっとはやく、それを聞かないの?なんですぐに、けんかのあとでフォローとか入れに来ないの?やっぱ待ってなきゃダメなの?」

「それは」

「仕事が、って言うけど、べつに私だって働いてるんだしさあ」

 典子の口調は彼を責めてない、もう前からあきらめているようだ。そんなことに祐一はいまさら気づいたのだった。

「そこまで求められてないんだな、って思った。

それはべつにいい、ユーイチの問題だと思ってるから。

私は自分で思って決めたの、いまのままじゃつまらないから変わろうと思ったの」

 じゃあね、といって踵をかえし彼女の後姿は小さくなっていく。彼はしばらくそれを見つめて、職場のデスクに戻った。女ってやつは、とか、おれの言い分だってあるのに、とか、いろいろ考えたりもしたが、しょせんは完敗だったのだ。自分の自己管理…時間や感情や将来への希望、すべての怠慢が彼から彼女を奪ったことを理解したときに、祐一は彼女以外のものも失っている自分に対して、はじめて強く憤るしかなかった。

 

 

 

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