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由真子は物欲がないね、と言われたのは同僚の治子がはじめてではなかった。

 横浜市内のイベント会社で総務職に就いて3年と半年。それはそのまま彼女の社会的年齢になる。治子をはじめとする同年代、20代の後半といえば金銭感覚や買い物にも余裕をおぼえる頃合いである。

「欲しいけど、買わないだけだよ」

仕事が終わって治子と食事に行った際に、由真子はまだ何も来ないテーブルに輪を描いた。大きめに

「欲しいもの」

 その円に一部交わるようにもうひとつ、それよりちいさめに輪を描く。

「趣味と、いま持っているもの」

 ふたつの円の混じった一部にもうひとつ限られた円を描き

「許せる金額」

「これらが見事にかさなる部分をよくよく吟味するのが好きなのです」

 なんだかわけもなく恥ずかしいので口を押さえ隠し、肩をすくめて見せた。治子は頬杖をついてふむふむと頷いていた。

 むかしお付き合いしていた男性にも言われた記憶があった。由真子さん欲しいものないの?そのときはうまく説明できなかったが、なるべく本当に欲しいものがあらわれたとき躊躇なく買いたいから、衝動買いは避けているのだと話したおぼえがある。

 なんにつけてもそういうところがあって、社内のもらいものなどでも、好きなの選んで、なんて言われればあまったものを取るし、欲望というものにひるんでいるのか、周囲の出方を待っているのか、治子に言わせれば

「狩猟民族の血が枯渇している」

 のだそうだ。また、物欲だけではなくて男性にもそういったふしが見られ、お付き合いしてた彼が別れを切り出してきたときも

「いやだけど、しかたがない。私は両思いがいいし、それが無理ならしかたがない」

ドライに対応したという。

今後結婚を考えるなら最低23年は交際を経て30代を迎えるまでにはまとまっていたいと画策する治子はこの1年の「ご縁」があとに大きく響くなどと言う。由真子は別れた彼と2年半つきあっていた。いまはあたらしいお相手の影もない。

 

由真子の生まれは栃木の宇都宮にちかく、遠足といえば日光で、父親は市役所づとめの、いたって平凡な暮らしだった。母親が保育関係の仕事をしていたせいか、家には絵本のコレクションがあり由真子は本の好きな女の子に育ったのであった。だが小学校高学年くらいになるとマンガや小説にも興味が湧いてくる。母はそれをそうやすやすと買ってくれなかった。

「うちはだめ」

というのである。本以外のものはわりとなんでも買ってくれた母だった。

「本は増えたらすごい量だし、重くて大変だから困るの。1冊買ったらどんどん増えていくのよ。本当にいい本だって思う本で、来年も再来年も読むものだけなら、大まけにまけて由真子の本棚に50冊だけなら、許してあげる」

 母の指す本は、教科書や副読本、参考書の類は含まれていなかった。雑誌も含まれていなかった。本棚を廊下に置かせられて、必要以上の本があると借り物かどうか検閲が入る。

「雑誌は自分でも捨てられるでしょ。でも、本は一度思い入れると捨てらんないのよ」 

「そんなに本が好きなら図書館に行けばいいし、司書さんになったらいいわ」

 由真子は母の言いつけを破ったり守ったりしながら大学まで進み、司書検定を受け、資格を獲得した。大学は都内まで通った。長い通学時間の半分は読書についやされた。資格はとれたが4年生の秋になっても就職は決まらなかった。

「司書になったらいいのに」

 母は言った。

「そうそうなれるもんじゃないのよ、数が限られてるんだから」

 それでも市役所に勤めている父からの情報で図書館の分館のアルバイト募集を得て、最初の1年間はそこで働いていた。それはひとり暮らしの資金貯蓄のためでもあった。母の言いつけを破って破って破りまくって本に囲まれた暮らしがしたい。

 だが横浜で一人暮らしをはじめて派遣社員として働き出すと、仕事上のさまざまなことがあって、最初の半年は本を読む余裕や時間が取れなかった。そしてそのあとは自分の給料の中でやりくりしていくうちに、本に裂く資金がわずかになっていた。

 だから一人暮らし歴3年を越えたいまも、由真子の本棚にある冊数は100冊を越えていない。自分の物欲にこうした一連の母の考えは濃い影をおとしているのかもしれないな、と思わないでもない。

「そう思わない、おかあさん?」

 ある日の電話で由真子は母に聞いてみた。彼女は母親と仲が良くて、離れて暮らしてからも3ヶ月に一度はどちらかが動いて買い物や食事を楽しんだり、年に一度は温泉に行く。

「そうなのかもね、いいじゃない、別に悪いことじゃないでしょ」

 電話も二週間に一度の割合でどちらかがする。メールもする。

 そんな仲だから、由真子の母は治子の話も聞いている。結婚に関して母親がどう思っているのかも、尋ねたことがあって

「いまの時代なら本当に納得がいく相手が現れるまでは、べつにしなくてもいいんじゃない?一人で生きていけるんならサ」

 母は基本的にこういった思想の持ち主なのである。だから次の言葉にはびっくりした。

「由真子、お見合いしてみない?」

「そんなかたく構えなくっていんだって。はす向かいの笹野さん、下宿屋のおばちゃん。下宿してた男の子を、お世話したいんだって」

「えーでもそうはいっても、ポシャったらおかあさんも対面悪いんでしょ?」

「違うの、笹野さんもね、相手さんのおかあさんにお願いされて困ってるらしいの…でもねえ」

「なに」

「その相手さんいま漁師さんやってんだけど、ほらいつぞや送ったでしょ。干物」

「干物…ああ、うん、あれおいしかった」

「まあ、たとえ断ったとしても、ここで縁つくっといたらさ、ほら」

 由真子は顔をしかめた。

「干物のためにムスメを差し出すと?」

「うそうそ、それは冗談にしても、よ」

 由真子はひととおり聞いてから、ある程度考えて、受けることにしたのだった。漁師のもとに嫁ぐ気などまったくこれっぽっちもなかった。お見合いというものを体験したかったのである。

 

 そしてお見合いの日が来た。相手の鈴城一平さんというひとは静岡・沼津のひとなので、横浜で会うことになった。笹野のおばちゃんは由真子の電話にメールに何度も詫びた。

 由真子はいわゆるお見合い写真というのを撮るのも結構楽しんだし、送られてきた鈴城の写真にも幻滅はしなかった。漁師というのだからがっちりしているのかと想像していたが、首が太くて肩幅が多少あるくらいで、普通の青年にかわりなかった。むしろ「どうか」と思うのは鈴城の母という人の存在である。32歳にもなる息子に、女性を紹介して欲しいといって、かつて彼が下宿していたところの大家にまで話を持ってきたりするだろうか?由真子にはそこいらへんがどうにも解せないのである。しかし今日はそのわからんちんにも会わなければならない。話が進むことは度外視しているが、ストレートにいくとそのわからんちんは、由真子の義母におさまる女なのだ。

 さて、一室に通されて写真の君と対面す、という段取りになり、母と由真子、鈴城とその母わからんちんが向き合って座った。鈴城は写真より日に焼けており、こざっぱりとした格好をしていて、好青年然としている。対して母は浅葱色のツーピースでファンデーションが濃く、国会議員さながらの様子であった。由真子は茶色のワンピースドレスと薄いオレンジのブランケット、母は久々にと言って桜色の地の和服を着てきた。

 ひととおりの挨拶が終わって

「あとはお若いふたりで」

となるまで実際20分もなかった。だがなぜか国会議員のわからんちんの一挙手一投足に時間を感じたのだった。それは自分を恥じているのか、大きく見せようとしているのか、年齢不相応な振る舞いをする。由真子は将来こうはなりたくないと思った。

 とりあえずふたりになったので話をする。

 いつごろ笹野さんの下宿にいたのかを由真子は尋ねた。その頃自分は何歳だったろう。話を続けるとちょうど彼女が中学の頃あたりに下宿していたのだという。

「中学の頃ってなにしてました?」

 鈴城が聞いた。

「本、ばっか読んでました。まいにちいろんな友達にマンガ借りたり」

「あーもしかして」

 当時の下宿していた連中で、近所に住んでた女の子が歩きながら本を読んでいたので、何読んでるのと聞いたら答えてくれず、見たら「キャプテン翼」だったことが話題になったという。

「それ私です」

 ふたりは笑い、これからどうするかを検討した。鈴城がのぞむなら横浜観光もわるくはないな、と彼女は思ったが、鈴城は身体を真っ二つにしてつむじを由真子に向けた。

「ごめんなさい」

「僕、由真子さんとは結婚できません」

 ショックというよりは、思わず破顔してしまいそうになるのをこらえて苦しかった。ひとまず彼に頭を上げてもらい、なにも無理してこらえなくてもいいか、と思い、ちょっとだけ笑わせてもらった。大きい男が申し訳なさそうにしている姿はおもしろく、もっといじりたくなる衝動が湧く。

「わかりました」

「けどお見合いって即返事ってヤバいんじゃないですかね、順序的には」

「そうなんですか、済みません」

「いいえ、私も知りません。さしつかえなければ、理由を聞いてもいいですか?」

「はい、話します。

実はこの話が進みかけてやっと自分の気持ちに気づいたんです。好きな人がいるんです」

「どんな方なんですか」

 由真子は多少イジワルに相手の事を聞いた。この見合いの機会によって、自分がやっと幼馴染みの女性に片思いをしていたと気づけた、という彼に

「よかったですね」

と、言った。それは執着なくむしろ清清しい祝福の言葉だった。

「おかあさまはご存知なんですか?」

「いえ、…でも言います。ちょっと僕の結婚が遅いことに苛立っていて…、ヒステリックになんないといいんですが」

「無事を祈ります」

「本当に申し訳ありませんでした」

「いえ、結構ですよ。そんな恐縮なさらなくて」

由真子が下に出れば出るほど申し訳なさそうに振舞ってくれる。いいひとだ。こちらも正直なところを言ったほうがいいかもしれない。

「実は私も笹野のおばちゃんから聞いて、まあお見合いくらいしてみようかなって、本当に先のコト考えずお受けしたんです、それに」

「なんですか」

「いつだか笹野のおばちゃんからもらった、干物がとてもおいしくて。ああいう贈り物を毎年きちんとする男性の顔、ってのもみたかったし」

 ふたりはそのあと、由真子の完全イニシアティブで横浜を観光し、メールアドレスを交換して別れた。由真子のうちにも干物を送ってもらうことをさりげなくアピールしたが、それには条件がついた。

鈴城の恋愛相談相手となることであった。

 

 それから数ヶ月して、鈴城の恋愛はからくも成就し、現在結婚に向けてカウントダウン中だという。由真子の実家には、鈴城の心そのままに、家族三人にはいささか多いであろうさまざまな魚介類が届いた。笹野のおばちゃんからも再三

「由真子ちゃんありがとうね、ホントおばさん助かった」

 というお礼とともに

「由真ちゃんは本が好きだったよね、これわずかだけど」

 と1万円相当の図書カードをいただいてしまったのであった。

こうした一連の動きに、母からも

「あんたは相当なタマだ」

などと言われてしまうように、まさに棚からぼた餅といったところだが、由真子自体は「労働に相当する賞与」

だと思ってはばからない。

かくして彼女は休日に本屋へ足を運び、本当に読みたい一冊を探し、苦悩する楽しみが復活したのであった。

 

同僚の治子にもおすそわけの干物をクール便で送ってもらうよう実家に頼み、近日中に届く荷物の「いわく」を一から説明していくと

「あんた危ない橋渡ったね…」

「ふふ、だって干物ほしかったもん」

「干物 ねえ」

 一日一本だけ吸うという煙草を取り出して、火をつけて、治子はゆっくり吐き出した。白いけむりと一緒に、由真子は物欲ないねえ…という言葉をくちにしかけたようだが

「だって結婚よりまだほしいもの、たくさんあるもん」

 という由真子の声にさえぎられる形でのみこまれた。

 

 

 

 

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